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Happy Mother's Day!(1)

人物

 フミヤ ユウタの父

 ユウタ フミヤの次男


 居間。舞台中央にソファ。両端にクッション。その右側にひとりがけのソファ。前方にローテーブル。上には新聞、メガネケース、開いたスナック菓子の袋、マグカップ、リモコン類。下手の壁に引き窓。遮光カーテンがかかっている。下手寄りで奥にダイニングキッチン。テーブルと椅子が四脚。冷蔵庫等その他調度品。下手の庭に面したガラス製の引き戸から、太陽光。居間とダイニングルームそれぞれに廊下に通じる扉。また上手側の、居間の扉の横隣に、コンセントの抜かれたフロアランプ。家具調度はどれもシンプルで捉えどころのないデザインだが、全体としてモノトーンのメリハリのきいたシックなデザイン空間を構成している。高めにひらけた天井からの、まばらで控えめな、されど紙媒体の文字を読むには十分な程度の照明。


 上は肌着のTシャツ、下はジャージというラフな恰好でメガネをかけた初老の男、フミヤが、舞台中央のソファに腰かけて、タブレット型の端末を操作しながらくつろいでいる。

 やがて階段を下りて、廊下伝いに近づく足音。足音は一旦途絶え、十秒ほどの沈黙を経たのち、髪がボサボサなままの、スウェット姿のユウタが、居間の扉から現れる。


【フミヤ】 起きたか。

【ユウタ】 うん。

【フミヤ】 もう夕方だぞ。

【ユウタ】 うん。


 ユウタ、冷蔵庫から紙パックのジュースを取り出し、コップに注いで飲む。


【フミヤ】 ユウタ、今日よる出前とることにしたけど、なにがいい?

【ユウタ】 ん。なんでもいいけど、寿司はやだなあ。ピザがいい。

【フミヤ】 ピザか。まあたまにはな。なんか食うか。

【ユウタ】 ん。いや。お腹減ってないし。


 ユウタ、コップを手にして居間に来る。


【ユウタ】 テレビ見ないの。

【フミヤ】 リモコンの電池が切れてんだよ。

【ユウタ】 そう。前から効き悪かったしね。


 ユウタ、立ったままリモコンを手にし、ボタンを押して試す。


【ユウタ】 ほんとに駄目じゃん。

【フミヤ】 どっかに電池の余りがあったと思うんだけど。おまえわかるか。

【ユウタ】 知らない。


 ユウタはコップを机上に置いて、父親の隣に腰かける。リモコンからアルカリ電池を取り出し、なにか中身を確認するかのように振ったり、こすったりしてから元に戻し、再びボタンを押す。


【ユウタ】 やっぱ駄目だ。


 ユウタはリモコンを机上に置いて、ソファの上で、全身であくびをするように体をのばす。


【ユウタ】 今日、母の日だね。

【フミヤ】 そうだな。

【ユウタ】 これ食べていい?

【フミヤ】 ああ、いいよ。ぜんぶやるよ。


 ユウタ、スナック菓子をつまみ、ジュースを飲む。


【フミヤ】 ユウタ。

【ユウタ】 ん。

【フミヤ】 クーラーのリモコンの電池使えば?

【ユウタ】 ああ。でもいいよ。どうせろくなのやってないし。──それよりってかさ、父さん。

【フミヤ】 ん。

【ユウタ】 ちょっと話したいことがあって。

【フミヤ】 うん。なんでも話せよ。

【ユウタ】 でも、やっぱ言い辛い。

【フミヤ】 どうして。大学のこと? また留年しそうなの。

【ユウタ】 いや、大学は全然関係ないんだけど。でも、言われてみると、確かに。

【フミヤ】 確かにっておまえ。

【ユウタ】 あ。父さん、僕また留年するかもしれない。

【フミヤ】 でもまだ始まったばっかじゃんか。

【ユウタ】 いや、まあそれはそうなんだけど。たぶんもう一年必要になる。だいたい、そんな感じ。

【フミヤ】 そうか。でも、大学っつったって、毎日通ってりゃ、普通は卒業できるもんだと思うんだけどなあ。なにがそんなに難しいんだか、父さんにはよくわからないんだけど。

【ユウタ】 たぶんやる気の問題だろうね。自己責任ってやつだよ。

【フミヤ】 まあリョウヤだって留年してたからな。就職先さえちゃんとしてりゃ大丈夫だよ。

【ユウタ】 そういえばそうだったね。て言っても兄さんは一年だけだったけど。それでも銀行員になったんだから、結果オーライだったわけだし。凄いよね。まさに自慢の息子って感じ。(間)あーあ。僕の将来もなんとかうまいこといけばいいんだけどなあ。なんかこう、宝くじで大当たりするみたいな。

【フミヤ】(鼻で笑って)なに言ってんだよ。

【ユウタ】 だってそうなればぜんぶが報われるじゃん。それまでになにをしても帳消しっていうか。「終わりよければ全てよし」ってやつ? 結局そういうことなんじゃないの。だって死に際に「結果オーライ」なんてこと言ってのけるやつ、強すぎない?

【フミヤ】 まあ待て。そりゃ、なるべく留年なんざしてほしくはないけどね。学費だってタダじゃないんだから。

【ユウタ】 確かに。そうだね。うん。父さん、生きるのってお金がかかるんだね。

【フミヤ】 そりゃそうだよ。そうでなくちゃ。昔の時代のことは知らないけどさ、無料のものなんて所詮ただのものだよ。今は経済に貢献しなくちゃいけない。それが価値があるってことなんだ。

【ユウタ】 でも、死んじちゃったら意味ないけどね。

【フミヤ】 そりゃ何事だってそうだろ。

【ユウタ】 でも、それじゃなんで人って死ぬんだろうね。なんで生きるんだろ。

【フミヤ】 死ぬのは生きてるからだし、生きるのは死ぬからだよ。それ以上に意味はないさ。

【ユウタ】 でも僕はときどき信じたくなるよ。なにか霊みたいな存在だったり、神様みたいなあっち側の存在をさ。それもどこぞの偉い思想家や哲学者なんかが主張するみたいに、必要に迫られてつくり出されるんじゃなくって。むしろ僕は自分でも気づかないうちに、信じちゃってるみたいっていうか。江戸時代の百姓なんかとおんなじ具合でさ。

【フミヤ】 江戸時代の百姓が信じてたもんか。

【ユウタ】 なんていうか、自分が生きてるのが、自分のおかげだとは思えないんだよね。

【フミヤ】 そりゃ俺が養ってるからな。

【ユウタ】 いやいやそういうことじゃなくって。ったく、笑わせないでよ。いい? 父さん、要するにね、僕はこう思ってるんだ──つまりね、どこか自分でも探検したことのない心の奥の方で、僕はあっち側と繋がっていて、その神様かなにかのあっち側の存在のおかげで、自分は生存している──今もこうしてなに不自由なく生きていられるのも、あっち側の存在のおかげなんだ、って感じてるっていうか。違う言い方をすれば、僕ってのは顔も見たことのないあっち側の存在に生かされているわけで。だから僕はこの命を、いつかは向こうに返すことになる。で、それでだよ、もし仮にこれが正しかったとしたらさ、やっぱり生きてるのと死んでるのにも、はっきりとわからないとはいえ、やっぱり某かの意味はあるんじゃないのかな。たとえそれがどんなにちっちゃなものであったとしてもさ。

【フミヤ】 ふん、でもな、ユウタ、そんなふうにごだごだ言ったって、なんにもなりゃしないよ。そんなことは話しても解決する問題じゃないのさ。第一なんの役にも立ちゃしない。無駄はそぎ落とすんだよ。ほら、それをなんとかの剃刀って言うんじゃないっけか。詳しいことは知らんけどさ。

【ユウタ】 でも、そんなの間違ってるよ。きっとそうだよ。だって、卑怯だと思わない? わからないから、わからないって言うんだ。そんで、それでおしまい。──父さんは悔しくないの。

【フミヤ】 ……悔しいって、なにがだよ。

【ユウタ】 なにって、ほら。

【フミヤ】 ふん、「ほら」だけじゃわかんないよ。そんな曖昧な言い方。

【ユウタ】 ほんとに?

【フミヤ】 ああ。

【ユウタ】 あっそう。(スナック菓子を食べる)

【フミヤ】 …………

【ユウタ】 兄さんのことだよ。それと母さん。兄さんはもうすぐで一周忌だね。

【フミヤ】 ああ。そうだな。

【ユウタ】 母さんは十一年だっけ、十二年だっけ。忘れちゃったな。

【フミヤ】 今年で十四年だよ。

【ユウタ】 へえ。もうそんなに経つんだ。

【フミヤ】 そう。もうそんなに経つ。

【ユウタ】 そういえば兄さんが話してくれたっけな──ねえ、ここを出たがってたんでしょ、母さんて。

【フミヤ】 なんの話?

【ユウタ】 だから、母さんがここを出たがってたって話だよ。兄さんから聞いたんだけどさ──こっちに帰って来てから。

【フミヤ】 でも、ユウタ、おまえ、「ここ」って、どこのことを言ってるわけ?

【ユウタ】 いや、そりゃ父さんのもとをっていうか、この家のことじゃなくてさ。ここだよ、ここ。(床を指し示す)わからない?

【フミヤ】 わからない。全然。町か国かもしれないし。

【ユウタ】 聞いたことないの?

【フミヤ】 うん。

【ユウタ】 そう。僕はね、なんだかわかる気がするよ、母さんの言ってること。うん。どうも「ここ」ってのがしっくりこない。僕はずっとここにいるんだけど、ここがどこなのか、一度として理解できたためしがないっていうか……ふん、そういやあんときの兄さん、めちゃくちゃ優しかった。知ってた? 帰ってきてからの兄さんったら、母さんのこととなるととんでもなく優しくなったんだよ。なんていうかもう手が付けられないってくらいに。地球上で一番って言えるほど、あんときの兄さんは優しかったっけ。

【フミヤ】 リョウヤは病気だったんだよ。あいつには仕事がきつ過ぎたんだ。

【ユウタ】 生きてたら何歳なの、母さんて。

【フミヤ】 今はちょうど五十で、九月で五十一だよ。

【ユウタ】 へえ。ちょっと待って……じゃ、本当に母さんは僕の年齢で兄さんを産んだんだね。

【フミヤ】 ……そうなるな。うん。そう。

【ユウタ】 兄さんが言ってたとおりだ。

【フミヤ】 でもなんたってまた今になって母さんのことなんか聞くわけ。そりゃ聞くのはいいけどさ。なんかあったの。


 フミヤ、席を立ち、台所から酒を取り、グラスに注ぐ。ユウタはそれを目で追う。


【ユウタ】 なんか? なんかって何? 理由は特にないかな。でもどうしてだろ──好奇心? 自分の亡くなった母親に対する好奇心くらいあってもいいと思うんだけど。まあ今日が母の日だから? ちょうどさっきカレンダー見て思い出したんだけど。僕ももらっていい?

【フミヤ】 うん。

【ユウタ】 ありがとう。


 ユウタ、机上のコップに入ったジュースを飲み干す。

 フミヤ、ユウタの分も用意し、戻ってきて手渡すと元の位置に腰を下ろす。


【ユウタ】 確か去年もさ、みんなで飲んでたよね。テレビ観ながら。なんだっけ。映画観てたな。アクション映画だっけ。

【フミヤ】 母の日に?

【ユウタ】 そう。タイトルが出てこない。

【フミヤ】 多分、たまたま母の日だったんだな。朝から晩までくつろいでいられる日なんてそうそうないから。ほら、日曜に乾杯といこうや。それと母さんにも。

【ユウタ】 それと父さんの息子にも。

【フミヤ】 そうだな。リョウヤにも。


 フミヤ、飲む。ユウタ、父が飲むのを眺めから、飲む。


【ユウタ】 ねえ、兄さんが母さんの墓参りに行ったって知ってた?

【フミヤ】 いつ。

【ユウタ】 その日に。

【フミヤ】 母の日に?

【ユウタ】 うん。父さんがもうぐっすり眠ってたときに。

【フミヤ】 おまえも行ったのか?

【ユウタ】 いや、寝てた。兄さんやっぱ普通じゃなかったよね。

【フミヤ】 仕事のせいだよ。

【ユウタ】 みんなそう言うけど、やっぱりそうなの? むしろ僕には、兄さんが変わっちゃったのはこっちに来てからな気がするけど。でも、どうなんだろ。よくわからない。

【フミヤ】 ……まあだとしても、今更ああだこうだ考えたところでどうにかなるもんじゃない。あいつが今苦しんでなけりゃ、父さんはそれでいいと思ってるよ。

【ユウタ】 聖書読んでたのは知ってる?

【フミヤ】 リョウヤが?

【ユウタ】 うん。

【フミヤ】 部屋に聖書があったからな。

【ユウタ】 あれね、付箋まみれの。でも父さんがそれを知ったのは兄さんが死んでからでしょ?

【フミヤ】 そりゃそうだけど。おまえはもっとずっと前から知ってたのか。

【ユウタ】 まあね。そんで実をいうとね、僕はちょっと誇らしかったよ。すげえって思った。だって絶対のめり込んでたでしょ。ずっと部屋にいたし。

【フミヤ】 別にちょっと興味があっただけなんじゃないの。

【ユウタ】 そう? でも信じてたと思うよ。

【フミヤ】 そんなわけ。

【ユウタ】 母さんだってクリスチャンだったじゃん。

【フミヤ】 まあそうだけど、別に母さんは信心深くはなかったよ。そういう家庭で育ったってだけで。

【ユウタ】 そうなの? 少しも信じてなかったの?

【フミヤ】 そう思うね。

【ユウタ】 でも、聞いたことがあるんだけど──休日の真っ昼間にね、母さん、車通りの多い道路を、徒歩で渡ろうとしてたんだって。そこには横断歩道もあって、信号もついてた。そんなに遠くない場所。父さんだって通るし、絶対に知ってる所。んで母さんは歩行者用の信号が青になったから歩き出した。でも、そこにトラックが走ってきた。大型のだよ。母さんは全然気づかなかったんだって。たぶん気苦労が絶えなかったんだろうな。なんでも溜め込んじゃう性格だから。そんで二、三歩。そしてあと一歩でトラックにぶつかるってところで、誰かがうしろから母さんの右腕を掴んだ。間一髪。母さんははっと我に返って、振り返った。でもそこには誰もいない。母さんは自分を救ってくれたその腕を、そのとき天使のものだって直感的に確信したんだって。

【フミヤ】 へえ。おまえどこでそれを聞いたの。母さんから直接?

【ユウタ】 いや、兄さんから聞いた。

【フミヤ】 またリョウヤか。

【ユウタ】 父さんは知らなかったの。

【フミヤ】 ああ。聞いたことない。

【ユウタ】 そう。実はそのときさ、兄さんも一緒にいたんだって。手を繋いでて。だから兄さんの目の前を、トラックが猛スピードで突っ切ってったってわけじゃん。ヤバくない? (ジェスチャーを交えて)こう、びゅーって。当時はまだ六つとかで、自分じゃあんまり覚えてなかったらしいんだけど、兄さんが成長してから、母さんが話して聞かせてくれたんだってさ。ただここが一番おもしろいところなんだけど、母さんの話とは違って、幼かった頃の兄さんの記憶じゃあ、母さんが歩き出したときはまだ歩行者用の信号は赤だったんだって……そんな話も含めて、兄さんは僕に色々なことを話してくれたっけ。

【フミヤ】 そう。でも、なんとも言えないな……母さん疲れてたんだろ。だからそんなふうに感じたんじゃないの? そういうことなら、あっても別に不思議じゃないだろうし。

【ユウタ】 そうだね。そうかもしれない。

【フミヤ】 それにその話だけじゃ、リョウヤも神や天使なんかを信じてたってのは言えないでしょ。

【ユウタ】 確かにちょっと弱いかもね。でも信じてたと思うよ。兄さんは母さんの子だから。

【フミヤ】 いや、あいつは信じちゃいなかったよ。だから自殺なんて馬鹿な真似ができたんだ。

【ユウタ】 でも、イエス・キリストだって自分から死んだんでしょ。

【フミヤ】 あれを自分から死んだっていうのは、ちょっと違うよ。そもそもイエスは、一応は法に則って磔にされたんだし、それに母さんの話から考えるに、ありゃ恐らく、そうならなきゃいけなかったんだよ。勿論、やつらの宗教の世界観においては、の話だけど。

【ユウタ】 やつらって誰?

【フミヤ】 キリスト教徒のことさ。

【ユウタ】 じゃそこには母さんも入ってるわけ?

【フミヤ】 まあそうだな、一応。いや母さんは違う。信心深くはなかったから。

【ユウタ】 じゃ父さんは、兄さんは嫌々自殺したって思ってるの?

【フミヤ】 ああ。そりゃそうだよ。そうに決まってるだろ。生きたくても思うようには生きられないから人は死を選ぶわけでさ。それ以外にどんな理由があるってんだ。

【ユウタ】 わからないけど、嫌々じゃない自殺ってのも、あるんじゃないの?

【フミヤ】 おい待て。それじゃおまえは、リョウヤが自分から進んで死んだって思ってるのか。

【ユウタ】 ん。どうだろ。それはちょっと言い過ぎかもしれないけど。

【フミヤ】 言い過ぎもなにも、おまえ自分の言ってることがわかってるのか。おまえはリョウヤのやつが、全然嫌々じゃなくて、強いられたわけでもなくて、なにか新しいことに挑戦するくらいの軽い心境で、死んじまったって思ってるのか。おまえは、自分の兄の死を、そんなふうに受け止めてるのか。

【ユウタ】 いや、軽いとまでとは言わないけどさ。でも、そういう積極的な面は結構あったと思うんだよね。あんまり誤解しないでほしいんだけど、なんていうか、むしろ兄さんは死ななきゃいけないって感じていたと思うんだ。ちょうどキリストが背負っていただろう義務感と同じような心持ちでさ。父さんの言葉を借りるなら、勿論、兄さんの考える世界観においては、の話だけど。

【フミヤ】 ユウタ、父さんにはおまえの言ってることがさっぱりわからない。仮にそんな義務感に駆られていたとしても、リョウヤが死ぬことでなにが果たされるってんだ。なにがどう変わったってんだ……病気だよ、病気。仮におまえの言うような義務感を抱いていたとしても、それは心が病んでたからだ。

【ユウタ】 やっぱりな。父さんは兄さんのことをなにもわかっちゃいない。

【フミヤ】 じゃなんだって言うんだ。

【ユウタ】 兄さんは正しいことをしたかったんだよ。

【フミヤ】 自殺のどこが正しいわけよ。

【ユウタ】 わからないけど、兄さんはたぶんそうすることで、空いていた穴を埋めようとしたの。

【フミヤ】 あいつのことは、俺は自分を見てるように理解してるつもりだよ。

【ユウタ】 だとしたら父さんは、本当は自分のことも全然理解しちゃいないんだね。兄さんはどっちかっていうと母さんに似たんだよ。


 フミヤ、堪らず立ち上がり、その場から少し離れる。


【フミヤ】 ふん、今日はえらく威勢がいいじゃんか。ユウタ。俺は嬉しいよ。おまえはいっつも、こんなにたくさん話しちゃくれないから。


 フミヤ、空いたグラスに二杯目の酒を注ぎに下がる。


【ユウタ】 父さんは僕にどうなって欲しい?──なにか期待してることはあるの? いや、やっぱ言わないでいいよ。はあーあ。父さんがなにを期待してるにせよ、僕は全然そんなふうにはならないだろうな。結局僕も兄さんとおんなじってわけで。

【フミヤ】 おんなじって、おまえも銀行員になるってか?


 フミヤ、酒を手に戻ってくるが、ソファには座らず、傍で立っている。


【ユウタ】 いや、銀行員にはなれないよ。そんくらいはわかってる。

【フミヤ】 じゃなんだ、おまえも母さんに似てるってか。

【ユウタ】 そういうことになるね。

【フミヤ】 ふん。でもそれがなんだって言うんだ。

【ユウタ】 みんな兄さんは鬱病だったって言ってたけど、でもそれって母さんも一緒だったよね。

【フミヤ】 鬱病なんざ大抵のやつが経験してる。社会の洗礼みたいなもんだよ。

【ユウタ】 父さんも経験してるの。

【フミヤ】 誰だって塞ぎ込むことくらいある。

【ユウタ】 僕はまだないけど。

【フミヤ】 そりゃ、まだ子供だからな。そのままでいて欲しいけど、そううまくもいかないかもな。

【ユウタ】 なんたって母さんの子供だからね。

【フミヤ】 それは違うさ。環境だって、悪いのは。母さんは関係ない。

【ユウタ】 でも母さん鬱病だったんでしょ。それも五年とか六年とか結構長い間。薬もたくさん飲んでたって。兄さんから聞いたよ。僕は全然気づかなかったけど。兄さんはちゃんとわかっててさ。知ってる? 重い鬱病の人って、時間の感覚ってのがなくなっちゃうんだってね。なんかこう、今ってのが、まるきりわからなくなっちゃうらしい。今このひとときっていう、ここに存在している生き物の感覚。それがぐちゃぐちゃになっちゃうっていうか、目の前の現実がまるきり溶けちゃうような。アイスクリームみたいに。父さんもそんな経験あるの?

【フミヤ】 いや、ない。

【ユウタ】 母さんはどうだったんだろう。兄さんにもあったのかな。

【フミヤ】 リョウヤは知らないけど、母さんはなかったはずだよ。そんな様子じゃなかったから。

【ユウタ】 僕はどうなんだろ。どうなるんだろ。でも、僕にだって昔似たような経験ならあって。感覚がめっちゃ鋭くなって、意識もはっきりしてるんだけど、なんも捉えられなくなっちゃう感じの。もうどうにも自分じゃ抑えようがないやつ。

【フミヤ】 おまえそれは癲癇のことだろ? 記憶あるのか、おまえ。

【ユウタ】 うん。幼稚園児の頃だよね。

【フミヤ】 ああそうだけど、でもあれは発作だよ。鬱病なんかじゃない。それにもう治っただろ?

【ユウタ】 どうだろうね。実を言うと僕は未だに怖いよ。たまにそれが原因で眠れない日だってあるくらいで。

【フミヤ】 とにかくおまえは鬱病じゃないし、癲癇の発作も十年以上起きちゃいないんだよ。

【ユウタ】 ねえ──、僕が自殺したら? 兄さんみたいに。

【フミヤ】 ユウタ、おまえ……おまえが死ぬ理由がないじゃないか。馬鹿なことばっか考えやがって。冗談にしたって、自分の親に向かって口にするもんじゃねえって、わからないのか。

【ユウタ】 ごめんね父さん。ちょっと言い過ぎたかも。

【フミヤ】 ったく、近頃の若い輩は命の重さってのをなんとも思っちゃいねえのか。

【ユウタ】 僕は近頃の若い輩じゃなくて父さんの息子だよ。

【フミヤ】 ああ言えばこう言いやがって。でもなユウタ、おまえは自殺なんかしねえぜ。そんな勇気ないだろ? そりゃ、リョウヤも、薄志弱行で、自分の要求をろくに示さないところがあったけどな、それでも最期は自分のやり方で、誰にも邪魔させずにやってのけたんだ。勿論それが大馬鹿野郎の決断ってことに変わりはないさ。でもその点だけは、俺は誇りに思ってんだ。つまり、自分で自分の最期を決めたっていう、その点だけはな。でなきゃやってられねえってのもあるけど、それでも、それでもよ、俺はあいつが死んで楽になったのなら、それでよかったって思ってんだ。俺はあの大馬鹿野郎のことを愛してるんだよ。

【ユウタ】 父さん酔いが回ってきたみたいだね。

【フミヤ】 いいだろ、飲んでんだから。大抵の人間は死のうなんざ思っても死にきれねえ。なのに他人思いのあいつときたら、こんなにちっぽけなナイフで以て、やってのけたんだからな。そのためだけにわざわざネットで取り寄せたりなんかしやがって。根は臆病なくせに、まったく大それた結末じゃねえか。でもおまえには無理だよ、おまえには。おまえは兄さんみたいに真剣に悩むってことが、点で出来ない質なんだから。おまえは医者が認めるような鬱病にはならないし、どんな種類の心の病とも無縁な人間だ。ただちょっと、ほんの少し思慮が足りないっていう、そういう面があるのも事実だけど、そんなのは個性のうちに収まっちまうもんだ。おまえは至って健全な人間だよ。真人間だ。誇っていいぞ。

【ユウタ】 そうだね、僕は兄さんじゃない。だからナイフで自分の首を突き刺すなんて真似は無理だけど。でもね父さん、もしかしたら、もしかしたらだよ、僕もやっぱり早死にするんじゃないの。つまり、なんか呪われてるって感じだよ。運命みたいな。そんな気がする。僕が母さんに似てるってのは、たぶんそういうことなの。

【フミヤ】 じゃなんだ、あれか、おまえも事故でお陀仏になっちまうってのか。

【ユウタ】 なんとなくそんな予感がするってだけ。僕は母さんの子供だから。

【フミヤ】(大きな声で笑って)おもしれえじゃねえか。なんだよ、ユウタ、おまえ。いき過ぎだよ。笑っちゃうよ、そんなん。なあ、おまえはそんなことばっか考えてるから、駄目なんだよ。留年もするし、いつだって少し上の空で、目の前の世界を受け止めきれない。

【ユウタ】 ようやく言ったね、父さん、僕が「駄目」だって。父さんの本音が聞けて、僕は嬉しいよ。

【フミヤ】 いやいや、俺は親としておまえの欠点を理解してるってだけで。誤解しないでくれ、いいな? ユウタ、俺はおまえを愛してる。愛してるんだよ、リョウヤと同じくらい。ただ──いやそれだからこそ、おまえにゃもっと現実的になって欲しいんだよ。別に多くは求めちゃいない。勉強をする。大学を卒業する。就職する。そんなもんだって。

【ユウタ】 でもね父さん、現実ってのは目の前にだけ存在するもんじゃないんだよ。それは僕らの外側に広がってるのと同じくらい、僕らの内側にだってひらけているものなんだ。

【フミヤ】 そこに運命があるってのか。運命や神や、正義とやらがさ。ふん、それがなんになるってんだ。どの存在も曖昧な、証明不可能な概念じゃないか。頭の体操にはいいかもしれないが、それ以上のもんじゃないよ。がらくただ。金にすらなりゃしない。

【ユウタ】 待って。どうして今「正義」って言葉を持ち出したの? 僕がいつ正義の話なんかしたっけ?

【フミヤ】 わからんよ。でも同じだろ。そんなものはこの酒やソファみたいには存在しないし、その存在を確かめてみる価値もない。第一人間はなにをすべきでなにをすべきでないかを、俺たちはちゃんと理解してるんだ。それで十分じゃないか。

【ユウタ】 じゃどうして世の中には悪があるの? 誰が人の世を正しく裁くの?

【フミヤ】 そりゃ、人間が忘れっぽいからだよ。昨日の夕飯だって覚えちゃいられない始末だからな。だから人間が人間を裁く。そこに絶対的な価値観や、決まりきった宿命なんざは要らない。正しさってのがそもそも、絶対的なものじゃないんだ。というよりそもそも、「絶対」っていうこの言葉──この言葉がよ、俺が思うに、所詮はひとつの誤りに過ぎないのさ。幻想でしかないんだよ、そんなん。

【ユウタ】 確かにそうかもしれないね、父さん。でもたとえ幻想であっても、それは虚構されたものとは違うと思うな。つまりなんていうか、空想されたものとはね。たぶんだけどさ、存在しないってことは、あっち側の存在にだけ許された存在の仕方なんじゃないのかな。

【フミヤ】 また「あっち側」の話か! もうやめてくれよ、ユウタ、頼むからさ。

【ユウタ】 だって、もし不在が存在しなかったとしたら、僕らはなにを追い求めることができるんだろ。なにを信じることができるんだろ。

【フミヤ】 おまえの言ってることは馬鹿げてるよ。偽りだよ偽り。不在が存在するなんて、ただの屁理屈さ。一部の物好きだけが好むような、言葉のあやに過ぎない。

【ユウタ】 父さんがなんと言おうと不在は存在するんだよ。

【フミヤ】 おまえがなんと言おうがそれはただの詭弁だよ。言葉には正しい使い方ってものがあるんだ。

【ユウタ】 だとすると、それが意味だね。でも誰がいつそいつを決めたんだろう。

【フミヤ】 人知れずそうなるもんだ。

【ユウタ】 へえ。だとするとやっぱりそこにもある種の不在が存在するんだね。

【フミヤ】 もうごめんだ。お手上げだよお手上げ。ユウタ、おまえの勝ちだ。降参するよ。


 フミヤ、再度空いたグラスに酒を注ぎに下がる。



──続く──

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